田原の歴史 

 中野村逢坂郷・南野村の東、生駒山地東側の標高150メートル前後に立地する大阪府域で唯一生駒山東部に開けた集落。讃良郡に属し、江戸初期には1村であったが、後に北半が下田原、南半が上田原となる。北は讃良郡星田村、東は添下郡北田原村・南田原村に接し、国境は天野川が北流、川沿いに磐船街道が通り、逢坂峠を越えて下田原を横断する清滝街道は下田原・北田原境で磐船街道と交差する。地名は小松寺の縁起に載せる保延5年(1139)の勧進奉加帳に「田原郷」みえる。また久安元年(1145)の近衛天皇綸の近衛天皇綸旨に「田原西郷」「田原東郷」がみえる。鎌倉時代初めには七条女院(後鳥羽天皇母)領田原庄が成立しており、以後大覚寺統の荘園として伝領されたと見られるが、詳細は不明。天保15年(1844)上田原村差出明細帳によれば村高273石余・反別24町余・家数54・人数292・寺院5とある。明治2年(1869)下田原村家数人別書上帳によれば家数79・人数334とある。